男子は無言で進む。
1.画面の向こうは、静かだ。
「お元気ですか?」
「……はい」
「合宿、どうだった?」
「……」
小学6年生の男子。
オンラインで算数を教えている。
この子は、とにかくしゃべらない。
質問しても、隣にいるお父さんやお母さんの方を向くだけだ。
問題を読んだり、「はい」「いいえ」と答えたりはできる。でも、それ以外の直接の会話は難しい。
実はこういう男子は結構いる。
自分だって小学生の頃、大人とうまくしゃべれなかった気がする。
だから、無理にしゃべらせようとは思わない。
授業では、俺が問いかける。
「ここは何対何?」
沈黙。
「じゃあ、この三角形は?」
また沈黙。
たまに小さな声が返ってくる。
オンラインの個別指導なのに、会話がほとんどない。
これで授業になるのか。
そう思う人もいるかもしれない。
でも、俺はこの子との授業が好きだ。
難しい問題にも、ちゃんと向き合っている。
静かな画面の向こうで、確かに算数が動いている。
2.見えない頭の中を、ノートから探す。
俺が見ているのは、彼のノートだ。
どこに線を引くのか。
どんな図を描くのか。
どの数字を先に使うのか。
何を書いて、どこで止まるのか。
ノートには、その子の思考が出る。
例えば、立体の切断。
難関中学の入試で出てくるような、複雑な立体の問題だ。
「まず、切断面の平面図を書いてみて」
待つ。
画面の向こうで鉛筆が動く。
図が出てくる。
ああ、ここまでは見えているんだな。
切り口の形は分かっている。
でも、相似の対応関係がまだ整理できていない。
だったら、そこだけ聞いてみる。
「この辺と、この辺。何対何?」
また、待つ。
正しい比が書かれることもある。
違う比が出てくることもある。
その一本の線、その一つの数字が、次の手がかりになる。
ときには、俺の予想を超える解き方が出てくる。
「あ、そういうことか。先生が追いついてなかった」
そんなこともある。
しゃべってくれた方が、もちろん分かりやすい。
でも、言葉だけがコミュニケーションではない。
ノートを見ていると、彼がどこまで理解しているのか、かなり深いところまで追いかけられる。
もちろん、読み違えることもある。
だから、決めつけない。
よく見る。
そして、待つ。
3.突然、答えが現れる。
ある日の授業。
分数がずらっと並んだ、難しい数列の問題だった。
101番目の数を求める。
さらに、そこまでの数の和を求める。
彼は、数字を一つずつ書き出していた。
間違っていない。
でも、そのままでは大変だ。
数字が横に並んでいる。
この並び方だと、規則が見えにくい。
「これ、8個で一つの周期になってない?」
少しずつ整理していく。
8個で一組。
101番目は13組目の5番目。
さらに、組ごとの和を調べる。
4、12、20……。
増え方にも規則がある。
「かすかな糸がつながりましたよ」
思わず、そんな言葉が出た。
さっきまで、ただ並んでいた数字。
それが、まとまりになり、規則になり、答えまでつながっていく。
こういう瞬間がたまらなく好きだ。
でも、ここには難しさがある。
ヒントを出すのが早すぎると、本人が発見する前に先生が答えを教えてしまう。
かといって、ずっと待っていればいいわけでもない。
何も見えないまま、時間だけが過ぎていくこともある。
だから、今どこまで見えているのかを探る。
次の一言で、何かが動きそうか。
そのタイミングを探す。
サーフィンとよく似ている。
波が来ていないのに、いくら必死に漕いでも乗れない。
波が来てから慌てても遅い。
波を見る。
感じる。
合わせる。
そして、ちょうどいいところで漕ぎ出す。
算数の授業でも、そんな瞬間がある。
先生が引っ張って進ませるのではない。
本人の思考が動き出すところに、うまく合わせる。
波に乗れば、さっきまで難しかった問題が、驚くほどスムーズに進むことがある。
4.沈黙は、空白じゃない。
中学生や高校生の男子が、仲のいい3人でマックにいる。
きっと一生の友達になるような、大切な仲間たち。
なのに、3人ともスマホを見ている。
誰もしゃべらない。
ずっと静かだ。
突然、誰かが言う。
「うわ、これすごっ」
「何それ?」
「それなら俺の方がすごいぜ。この前…」
ちょっと盛り上がる。
そして、また無言。
そんな時間を1時間でも平気で過ごしている。
つまらないわけじゃない。
むしろ、最高に居心地がいい。
男子には、そういう時間がある。
一緒にいるのに、ずっと会話している必要はない。
勉強だって、同じなのかもしれない。
無理にしゃべらなくても、気持ちよく集中できる。
その状態に入れたら、難しい問題だってどんどん進む。
授業が終わる。
「お疲れ様でした」
「……ありがとうございました」
保護者の方も、授業の成果を感じてくださっている。
そして授業のおわり、
本人からごきげんなスタンプが届く。
あんなにしゃべらなかったのに。
スタンプは、ずいぶんにぎやかだ。
思わず笑ってしまう。
楽しかったのかな。
手応えがあったのかな。
本当のところは分からない。
でも、彼なりの返事なんだと思う。
もっと話せたら、それはそれでいい。
でも、今の彼を無理に変える必要はない。
今日も、俺はたくさんしゃべった。
彼はほとんどしゃべらなかった。
それでも、二人で難しい算数を解いた。
複雑な立体の2回切断も、
難しめの規則性も、腑に落ちた。
男子は無言で進む。
